目 次

はじめに

 今年(2008年)、生誕100年を迎えた東山魁夷の人気がとどまるところを知りません。当サイトでも、東山魁夷作品(複製画)を10点販売していますが、いまのところ売れ行きはすこぶる好調です。東京国立近代美術館で3月29日から5月18日まで開かれた「生誕百年東山魁夷展」は大盛況で、会期中およそ27万人が訪れたということなので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

 周囲の人に聞いてみると、絵画にそれほど興味がなくても、東山魁夷なら知っていると言います。

 でも、なぜ東山魁夷は、これほど人気があるのでしょうか。

 正直言うと、ほんの数年前まで、私にとって東山魁夷は特段好きな画家とは言えませんでした(好きな部類に入る画家ではありました)。いつものことなのですが、ただ単に勉強不足だったらしく、数年前、機会があっていろいろと調べてみると、すぐに認識を改めざるを得ないことに気がつきました。

 私が好む画家というのは、作品の出来不出来だけで決まるわけではありません。画家自身のものごとの考え方やふるまいなどを含めたさまざまな要素が作品の評価につながると考えています。調べれば調べるほど、知れば知るほど、その画家と作品に引き込まれていくという感覚が重要なのです。

 東山魁夷という画家は、その風貌や作品から受ける印象とはまったく異なり、まさしくその条件に合致していることが、調べ始めてすぐにわかりました。(写真で風貌を見る限り私には、〔失礼な話しですが〕東山魁夷は温厚で平凡な、面白みのない人物のように見えていました。いつも思うのですが、やはり、人を見た目で判断してはいけません。)

 東山魁夷の作品には、画家のさまざまな思いが込められています。人気がいまなお衰えないのは、その思いが作品から姿形を変えてにじみ出ているためであり、その一端を知ると知らないとでは、作品の味わい方が大きく変わります。

 これから書くことは、東山魁夷の愛好者であれば先刻ご承知のことだと思いますが、中には「作品の魅力そのものに引かれているだけ」という東山魁夷ファンもいると思います。そこでいくつか、東山魁夷を鑑賞する際には、「これだけは知っておいた方がいいのでは?」というポイントをまとめておこうと考えたわけです。

 ご興味のある方は、参考にしていただければと思います。

/ ページのトップ(目次)に戻る / ストアのトップに戻る / ホームに戻る /
/ 東山魁夷の複製画を見る /

略 歴

東山魁夷:1908年(明治41年)〜1999年(平成11年)、本名・東山新吉

1908年(明治41年)
7月8日、東山浩介、くにの次男として横浜に生まれる。

1911年(明治44年)3歳
一家で神戸市に転居する。

1926年(大正15年/昭和元年)18歳
東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。
夏、木曽川沿いに天幕旅行をして、始めて高い山の登山を経験する。東山魁夷は、後にこの時のことを回想して「木曽川に沿う十日間の旅で山国のきびしく雄大な自然と、そこに住む人々の素朴な生活に深い感銘を受けた。」(「私の履歴書—日本画の巨匠」日経ビジネス人文庫より)〉と書き残している。
※天幕……テント。つまり天幕旅行とは、テントに寝泊まりする旅行のこと。

1929年(昭和4年)21歳
7月、兄国三が結核で死去。
10月、始めて展覧会に出品した《山国の秋》が、帝展(第10回)で入選する。

1931年(昭和6年)23歳
東京美術学校を卒業、引き続き研究科に進む。
結城素明に師事、雅号を魁夷とする。

1933年(昭和8年)25歳
東京美術学校研究科を修了。8月、かねてから計画していた欧州外遊に出発、10月半ば、ベルリンに到着する。

1934年(昭和9年)26歳
3月〜7月、欧州各国を旅行。
10月、第1回日独交換学生に選ばれ、2年間の留学費用をドイツ政府から与えられる。
11月、ベルリン大学哲学科美術史部に入学する。

1935年(昭和10年)27歳
9月、父病気の報が届く。留学期間をあと1年残していたが継続を断念、帰国する。父の病気はたいして危険と言うほどのこともなかったが、実家の商売上の問題がかなり深刻な状態に陥っていることを知る。

1936年(昭和11年)28歳
2月、帰国後始めて、第1回帝展に作品を出品する。実家の商売のこともあり「良い絵を描きたいと念じ」ながら描いた作品は落選してしまう。美術館に発表を見に行き落選を知った翌日、2・26事件が発生する。

1940年(昭和15年)32歳
11月、川崎小虎の長女すみと結婚し、中野区鷺宮に家を借り、結婚生活を始める。

1941年(昭和16年)33歳
弟泰介が結核で入院、さらに新婚家庭を手伝うため上京した母くにが脳溢血で倒れ、寝たきりになってしまう。

1942年(昭和17年)34歳
実家の負債の整理が決着、その1カ月後に父浩介が亡くなる。

1943年(昭和18年)35歳
春、北京に住む知人から勧められ、奉天、熱河を経て北京に滞在、帰途、京城(現在のソウル)に寄る旅行をする。

1944年(昭和19年)36歳
12月、疎開した義父川崎小虎の留守宅(杉並区阿佐ヶ谷)に移り住む。その引越し後1週間もたたないうちに、もとの鷺宮の家は空襲で燃えてしまう。

1945年(昭和20年)37歳
4月、妻の妹をたより、病気の母をおぶって飛騨高山へ疎開する。
7月に召集を受け、熊本市の連隊に入り迫撃兵二等兵となるが、8月に終戦を迎え、9月に除隊する。
11月、母くにが亡くなる。
12月、単身上京。千葉県市川市に仮住まいを見つけ、翌年開催される第1回日展に出品する作品の制作を始める。

1946年(昭和21年)38歳
3月、第1回日展に出品するが落選。それから1週間もたたぬうちに弟泰介が結核で亡くなる。この弟の死により、肉親が1人もいなくなる。

1947年(昭和22年)39歳
10月、千葉県の鹿野山に登り構図を考えた作品《残照》を第3回日展に出品。この作品が特選となり、政府買い上げとなる。この《残照》以来、東山魁夷は風景画家として立つ決意をする。

1950年(昭和25年)42歳
第6回日展ではじめて審査員を務める。出品画《道》は、多くの人の共感を得、画壇にも世間にも一躍認められるようになる。

1953年(昭和28年)45歳
3月、市川市中山に自宅を新築する。

1955年(昭和30年)47歳
9月、自宅に増築中だった画室が完成する。

1956年(昭和31年)48歳
5月、第11回日展に、新画室における第1作《光昏》を出品、日本芸術院賞を受賞する。

1957年(昭和32年)49歳
自伝「わが遍歴の山河」を出版する。

1960年(昭和35年)52歳
東宮御所壁画《日月四季図》が完成する。

1961年(昭和36年)53歳
5月、昭和22年以降の作品60余点が展示される、初めての大規模な回顧展「東山魁夷自選展」が銀座松屋で開催される。
皇居吹上御所の新築に際し、《万緑新》を制作する。

1962年(昭和37年)54歳
4月から7月にかけて、すみ夫人と共にデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドなど北欧を巡る旅に出る。

1965年(昭和40年)57歳
1月、日本藝術院会員に任命される。3月、日展理事に就任する。

1968年(昭和43年)60歳
4月、皇居新宮殿壁画《朝明けの潮》完成。

1969年(昭和44年)61歳
3月、日展常務理事に就任する。
4月〜9月、ドイツ、オーストリアを旅行。
11月、文化勲章を受章、文化功労者に選ばれる。

1974年(昭和49年)66歳
3月、日展理事長に就任する(〜1975年)。

1975年(昭和50年)67歳
5月、唐招提寺の第一期障壁画《山雲》《濤声》が完成、6月、御影堂に奉納する。

1976年(昭和51年)68歳
4月、日本文化界代表団の一員として中国を訪問。北京、西安、南京、揚州、上海を訪問、その後代表団と分かれて、太湖、桂林を写生旅行する。

1980年(昭和55年)72歳
2月、第二期障壁画《黄山暁雲》《桂林月宵》《揚州薫風》42面が完成。6月奉納。

1981年(昭和56年)73歳
7月、唐招提寺鑑真和上像逗子絵《瑞光》が完成。11月奉納。

1988年(昭和63年)80歳
12月、市川市から名誉市民の称号を贈られる。

1990年(平成2年)82歳
4月、長野県信濃美術館・東山魁夷館が完成。
9月、天皇の即位にともなう11月の大嘗祭で皇居豊明殿を飾る《悠紀地方風俗歌屏風》を制作、納入。

1998年(平成10年)90歳
11月、第30回日展に《月光》を出品。この作品が日展への最後の出品となる。

1999年(平成11年)
5月6日、老衰のため永眠(享年90歳)。従三位、勲一等瑞宝章を贈られる。
7月、東山魁夷館を望む善光寺大本願花岡平霊園に埋葬される。

【参考文献】
生誕100年東山魁夷展カタログ
[東京展]2008年3月29日〜5月18日[長野展]2008年7月12日〜8月31日
主催:東京国立近代美術館、日本経済新聞社

東山魁夷 Art Album 第1巻 美しい日本への旅
東山魁夷 著 / 東山すみ 監修 / 講談社 刊

私の履歴書 日本画の巨匠 東山魁夷(昭和40年6月 日本経済新聞社連載)
東山魁夷 著 / 日本経済新聞社 刊

/ ページのトップ(目次)に戻る / ストアのトップに戻る / ホームに戻る /
/ 東山魁夷の複製画を見る /

戦前と戦後、ふたりの東山魁夷

残照
1947年(昭和22年)
紙本彩色 額
151.5×212.5cm
東京国立近代美術館所蔵

第3回日展の出品作。東山魁夷は、この作品で始めて特選に選ばれる。千葉県鹿野山を数回訪れ、構図を考えた作品。東山魁夷はこの作品以来、風景画家として立つ決意をする。その記念碑的作品。

 東山魁夷が描き出した静謐な風景画は、芸術に対する真摯な姿勢を強く感じさせます。作品だけから判断すれば、彼の画家としての成功は、もともと豊かな才能を備えていた上に、自らの芸術を完成させるためにひたすら精進を続けた結果ということになるでしょう。

 しかし、多くの優れた芸術家に共通していることですが、東山魁夷の作品を見る際にも、決して見逃してはいけない事実があります。

 東山魁夷自身が、次のような言葉を残しています。

 〈私の場合、戦争を境に、はっきりと二つに分かれているということだ。前半は遍歴と模索の時代であり、後半は、ようやくみいだした自己の道を一筋に歩いてきたといえよう。細い幹の若木が、風雪のきびしさに倒れそうになりながらも、どうにか耐えて今日まで成長してきたわけだが、成熟するのに長い年月のかかったことが、かえって幸いであったと言える。〉(私の履歴書—日本画の巨匠 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社より)

 これは、東山魁夷56歳のときの言葉です。

 言うまでもなく見逃してはいけない事実とは、画家自身が言う「遍歴と模索の時代」の中にあります。誰でも自分の生き方を決めようとする時には、ある程度「遍歴と模索」を繰り返すのでしょうが、東山魁夷の場合、この時代の経験に特筆するべき点が数多く見られます。そのためここでは、ドイツ・ベルリン留学帰国から第二次世界大戦後までの10年余りの出来事を見ていくことにします。

 ドイツ・ベルリンの留学先から父の病気を理由に呼び戻された東山魁夷に対し、不幸が次々と襲いかかります。まず、帰国した東山魁夷は、実家の商売がうまくいかず深刻な状態に陥っていることを知らされます。そのこともあり、いろいろな期待を込めて第1回帝展に作品を出品しますが、あえなく落選してしまいます。
 1940年、川崎小虎の長女すみと結婚、これがこの時期唯一の明るい話題です。翌年、弟泰介が結核で入院、母くにが脳溢血で倒れ寝たきりになってしまいます。その翌年(1942年)、実家の負債整理が決着するとまもなく、父浩介が急逝してしまいます。
 東山魁夷自身も、戦況(第二次世界大戦)思わしくない1945年7月に召集を受け、熊本に配属されます。死を覚悟して召集に応じた東山魁夷は、ここで得難い経験をすることになります(この得難い経験に関しては別項目「芥川龍之介、川端康成、東山魁夷、そして末期の目」で詳述するためここでは触れません)。

 そして終戦の年の11月に母が、翌年3月に弟が相次いで亡くなり、東山魁夷は、肉親をすべて失い身寄りは妻のみとなってしまいます。しかも弟が亡くなる数日前には、第1回日展に出品した作品が落選するというありがたくないおまけまでついています。

 終戦の混乱の最中、住む所も定まらぬ東山魁夷は、妻を山梨県の疎開先に残し単身上京、千葉県市川市に間借りして、身を立てる術を模索しはじめます。東山魁夷は、その時の心境を後に次のように書いています。

 〈このとき、私はどん底に落ちこんでいた。しかし、もうこれ以上落ちようがないという意識は、私にとって一つの時代の終結を意味することに気づいた。全く、ヤリきれないくらいに悲しくもあり、恐ろしいことではあるが、ようやくここまで来て、私自身おそいながらも成熟してきたことを感じたのである。〉(私の履歴書—日本画の巨匠 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社より)

 たび重なる不幸、そして落選による自信の喪失。そのようなどん底にありながら、自分の成熟を感じられる能力(冷静さ、賢明さ、強さ、感性などか?)が、東山魁夷をどん底から立ち直らせたのでしょう。

 1947年、東山魁夷が39歳のとき、千葉県鹿野山に登って構図を考えた作品《残照》によって、第3回日展で特選に選ばれます。そしてこの《残照》以来東山魁夷は、風景画家として立つ決意をするわけです。その後1950年には《道》を第6回日展に出品、画壇にも世間にも認められる存在となります。

/ ページのトップ(目次)に戻る / ストアのトップに戻る / ホームに戻る /
/ 東山魁夷の複製画を見る /

芥川龍之介、川端康成、東山魁夷、そして末期の目


1950年(昭和25年)
絹本彩色 額
134.4×102.2cm
東京国立近代美術館所蔵

 第6回日展の出品作。青森県八戸の種差海岸にある牧場での取材。東山魁夷がはじめてこの地を訪れたのは、絵を描いたときより十数年も前のことだったらしい。少々長いが、この作品についての東山魁夷自身の言葉を引用しておく。

 〈道1本だけで構図することは不安であり、これで絵になるだろうかとも考えないではいられなかった。しかし、一筋の道の姿が私の心をとらえ、そこに私のすべての心情を細やかに注ぎ込むことができると思えてきた。もう一度、あの場所へ行ってみたいと考えたが、十数年も前の道が、戦争を経て、今もあのままの状態であるだろうかと心配でもあった。
 だが、どうしても見たくなって、上野をたった。〔中略〕
 「やはり来てよかった」と私は声に出して言った。十数年前の道は荒れてはいるが、昔のままの姿を見せ、向こうの丘へと続いていた。
 夏の朝早い空気の中に、静かに息づくような画面にしたいと思った。この作品の象徴する世界は、私にとっての遍歴の果てでもあり、また、新しく始まる道でもあった。それは、絶望と希望を織りまぜてはるかに続く一筋の道であった。〉(私の履歴書—日本画の巨匠 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社より)

 東山魁夷は、この《道》が多くの人の共感を得たことによってようやく自分が画家として認められたと実感したらしい。そのことについても以下のような記述が見られる。

〈私の仕事はようやく脚光を浴び、拍手をもって迎えられた。それなのにいちばん喜んでくれるはずの両親もきょうだいもいまは一人もいない。しかし、このさびしさ、むなしさがあるために、その後、運命がどんなに私に微笑しても、いつも謙虚でいることができるのかもしれない。〉(私の履歴書—日本画の巨匠 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社より)

 今年、東山魁夷の生誕100年を記念して、東京国立近代美術館で開催された「生誕100年東山魁夷展」のカタログに、芥川龍之介が遺した言葉「末期の目」に言及した記述が見られます。

 「末期の目」とは、芥川龍之介が自殺するに際しての心情を綴った「或旧友へ送る手記」の中に見られる言葉です。

 〈しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。〉(芥川龍之介全集 第19巻 岩波書店刊 所収「或旧友へ送る手記」)

 またカタログでは、この「末期の目」に関する川端康成の言葉にも触れています。

 〈あらゆる芸術の極意は、この「末期の目」であらう。〉(日本の美のこころ 川端康成 講談社刊 所収「末期の目」)

 少しこれは、言い過ぎのような気がしますが……。

 東山魁夷は、第二次世界大戦末期、明らかに戦況が思わしくない中、召集を受けます。死を覚悟して任地熊本に赴き、熊本城へと行軍したとき、その天守閣に立つ機会を得ます。かなたに肥後平野が青々と続き、近くに妙正寺山、遠くに阿蘇のすそ野という雄大な眺めを目にするのですが、そこで東山魁夷は不思議な感覚にとらわれます。

 〈そのとき一種の衝撃を感じてこの風景に見入った私は、帰途、走りながら、なぜあんなに美しく輝いて見えたのだろうと思った。自由に旅をしていたころに、この風景を見ても、たいして感じはしなかったに違いない。いわば、平凡な風景であり、平生、見過ごしているものである。それが、今、あんなに美しく見えた。生命の輝きというものだろうか。それが私に見えた。今までは生命に対する緊迫感がなく、自然の反映の中にその輝きをとらえる心の働きが鈍かったためか。展覧会とか名声とか、そういうものが私の目から自然のほんとうの美しさを見出すのを邪魔していたのではなかったか。純な心で自然を見なかったのにちがいない。ようやくそれがわかった現在、もう長く生きのびる希望も、絵を描く望みもない。私は汗とほこりにまみれて、あえぎながら走る一団の中で、歓喜と後悔に心が締めつけられるのを感じた。〉(私の履歴書—日本画の巨匠 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社より)

 この東山魁夷の経験が、芥川龍之介が言うところの「末期の目」の成せる業であることは間違いありません。いまのところ死を覚悟するような経験をしたこともなく、ごく平凡な人間である私には、彼らがどのような風景を見たのか知る術もありません。しかし、東山魁夷の《残照》以降の作品が、その「末期の目」に支えられているとすれば、私たちは作品を通して、彼の「末期の目」が見たものを見ていることになります。そう考えれば、彼の作品になぜ自分が引きつけられるのかが、少しだけわかったような気がします。

 「末期の目」とは、向上しようと努力した者が、その努力に見合った褒美として最後に与えられるものなのだと思います。人生を半分以上残した時点で「末期の目」を手に入れたという点で、東山魁夷は稀有な存在であると言えるかもしれません。

 ところで、私のような凡人には「何も与えられないのか」と言うと、そんなことはないでしょう。甘い考えかもしれませんが、凡人なりに少しでも頑張れば、少しだけ「末期の目」が与えられると考えています。その代わり、努力を怠ったり、間違った方向に力を傾けたりした人には、逆の意味の「末期の目」が与えられるのだと思います。できればそれだけは避けたいものです。

 何日先か、何十年先かわかりませんが、最後の時に、モネが見たもの、セザンヌが見たもの、ピカソが見たもの、そして東山魁夷が見たものの一端くらいは垣間みることができるかもしれない。最後の時にそんな楽しみを用意しておいてもいいのではないかと思います。

/ ページのトップ(目次)に戻る / ストアのトップに戻る / ホームに戻る /
/ 東山魁夷の複製画を見る /

東山魁夷の非凡さについて

晩照
1954年(昭和29年)
紙本彩色 額
150.7×108.4cm
東京国立近代美術館所蔵

 千葉県浜金谷から見た鋸山を取材して描いた作品。毎日新聞社主催の第一回現代美術展出品作(佳作を受賞)。この作品について東山魁夷は、次のような文章を残している。

 〈これも、現実の風景というよりは幻想の世界といったほうがよい。浜金谷から鋸山を見ていると、波の音も、漁村のざわめきも一瞬、消え去って、深い山の中の暗い湖をひかえてそそり立つ岩山の前にいる気持ちになった。山裾からはい上がる夕影と、岩のある山頂にわずかに夕日の残る調子は、実景と想像とが交錯してこの画面に生まれ出たものである。〉

 この絵については、もう一つ面白いエピソードが書き残されている。展覧会への出品の間際になっても制作がうまくゆかず、一時は出品を断念した作品だというのだ。しかしどこか取り柄があるようにも見えるし、奥さんが悪い絵には見えない、出品した方がいいとすすめるので意を決して出すことにしたらしい。ところがこの絵は、その展覧会(毎日新聞社主催:第1回現代美術展)で賞をとり、後には東山魁夷自身も代表作のひとつと考える作品になっている。

 東山魁夷が艱難辛苦の末に、自らの画業を完成させていったことは、「戦前と戦後、ふたりの東山魁夷」と「芥川龍之介、川端康成、東山魁夷、そして末期の目」で書きました。それだけを読むと、「なるほど、育った境遇や不運なできごとなどによる偶然の作用が重なったために、東山魁夷という一人の天才画家が生み出されたのか」と受け取ることもできます。

 天才になりたくてもなれない凡人からすれば(もちろん私もその一人ですが)、「所詮天才なんて偶然の産物に過ぎないのさ」と強がっていたほうが救われるのですが、天才と称される人物についてほんの少しでも調べてみれば、残念ながらそれは凡人のたわ言に過ぎないということを思い知らされてしまいます。もちろん東山魁夷についてもしかりです。東山魁夷に関する本などには、ごくあっさりと書かれていることが多いので、思わず見過ごしてしまいそうになりますが、その行動のひとつひとつをよく見ていくと、常人とは異なる東山魁夷の非凡さが浮かび上がってきます。

 もっとも幼少時は、「神経質で病気がち、内気で絵を描くのが好きな子どもだった」というだけで、とりたてて優れていたり劣っていたりということはなかったようです。強いて気になったことと言えば、以下のような出来事くらいです。

 〈中学校へはいった時から、友情とか恋愛(それが子供っぽいものであるにしても)が私の心を動揺の多いものにした。小学校時分から一面その傾向があったが、自分の意志でどうすることもできない自分というものの恐ろしさ、それが高じて神経衰弱になった。三年生の一学期のなかばから休学して夏休みいっぱいを淡路島の知人の家で過ごした。〉(私の履歴書—日本画の巨匠 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社より)

 子どもの頃から、かなり感受性の高い人物だったようです。しかし、神経衰弱になることが、非凡さの証しになるわけではありません。

 何と言っても特筆すべきは、東京美術学校研究科を修了してすぐに「できるだけ若い間に、西洋を見ておきたい」と考え、それを実行に移したことです。しかも、その当時、東山魁夷自身も神戸の実家も裕福だったわけではありません。東京美術学校4年生の頃から、父からの仕送りを断って自活していたほどです。後に東山魁夷は、「学業」と「生活のための仕事」を両立させるのに、かなり苦労したと書き残しています。
 そのような状況にありながらも、ドイツでの1年間分の滞在費をなんとか自分で工面した東山魁夷は、単身ヨーロッパへ渡航します。渡航費を節約するため貨物船に便乗させてもらったので、ドイツの港町ハンブルクまで2カ月もかかったそうです。その後約2年間、ヨーロッパ各地を旅行したり、ドイツ政府の留学費を獲得し、ベルリン大学哲学科美術史部に入学して学ぶという得がたい体験をします。
 ドイツへ向け日本を出発したのが1933年(昭和9年)8月ですから、若干25歳の若者が学業のためにヨーロッパを訪れるというのは、極めて異例のことだったはずです。それをさもあたりまえのように東山魁夷は実行してしまいます。

 もし、25歳のときの私にそのようなことができたかと問われれば、「絶対にできなかった」と答えるしかありません。

 25歳のときに自ら決断し、さまざまな苦労をものともせずに、ヨーロッパ外遊へと旅立った東山魁夷と、何かをやらなければと焦るばかりで結局何もできなかった自分。いったいどこが違うのかよく考え得た答えは、東山魁夷と自分とで明らかに異なっているのは、明確な目標を持っているかどうかということです。

 画業を極めるという明確な目標を持っていた東山魁夷にとって、ヨーロッパに行って学ぶことは絶対に必要なことでした。人間は明確な目標があれば、それに向かって相当な努力をすることができます。
 そう言えば、人生において何かを成し遂げた人というのは、皆、明確な目標を持った人たちです。わりと見過ごしがちなことですが、明確な目標がなければ私たちは何も達成することはできません。

 そしてもうひとつ、われわれ凡人と東山魁夷が決定的に異なる点は継続する力です。

 終戦直後、母を亡くし、続けて翌年弟を亡くし、東山魁夷は肉親をすべて失ってしまいます。しかも弟が亡くなる数日前には第1回日展にも落選してしまいます。終戦直後の混乱期で住む所も定まらず、ほとんど評価してくれる人もいない38歳にもなる無名の日本画家・・・。まさしく八方ふさがりの状態です。

 もし自分の周辺にそのような人がいたらどう思うでしょうか。

 私なら彼を、「才能もないくせに悪あがきをしている愚か者」と思うでしょう。友人であったり、親戚だったりして、支援できる立場にあったとしても、積極的に支援もしないでしょう。「もうあきらめて就職でもしたらどうなんだ」とありきたりな忠告を繰り返すことでしょう。

 では、自分自身がそのような立場に置かれたとしたらどうでしょうか。

 周囲の冷たい視線や将来に対する不安に耐え切れず、逃げ出すに違いありません。歴史をひもとき、事を成した人物のことを思えば、忍耐強く頑張らなければ何も成し遂げられない、ということは頭の中では理解できますが、とても実行できるものではありません。おそらく私の場合、周囲からの誹謗中傷の類にはある程度耐えられると思います。しかし、自分の心の中に芽生える自分自身に対する疑念に対抗する術はありません。
 ところが東山魁夷は、どん底とも思えるような絶望的な状況の中で、自分自身が成熟してきたこと感じたというのですから、やはりただ者ではありません。

 普通の人ならあきらめるしかない状況下でも耐え続けることができる。そして自分の才能を信じて努力を継続することができる。それも非凡な人生を送るためには重要な要素なのだと思います。

/ ページのトップ(目次)に戻る / ストアのトップに戻る / ホームに戻る /
/ 東山魁夷の複製画を見る /